朝崎郁恵さんは、1935年奄美大島の瀬戸内町の加計呂麻島(かけろま)の花富(けどみ)集落の生まれ。ちなみに、奄美本島の南端にある古仁屋港から対岸にある加計呂麻島の瀬相港までは“フェリーかけろま”で25分、海上タクシーを使えば約15分という距離だから極めて近い。
考えて見れば、まずはこの生まれた土地柄からしてすでにディープな宿命を背負っていたのかも知れない。と言うのも、奄美の島唄は大きく北部のカサン(笠利)節(笠利、龍郷地区)、南部のヒギャ(東)節(瀬戸内、宇検地区)の二つの流れに分けられる。一般に北部のカサン節は平坦な地形を反映して穏やかでおおらか、抑揚も少ない。勢い、声に頼ったスタイルになりがちだ。一方、南部のヒギャ節は山あり谷ありの起伏に富んだ地形を反映して、上下の振幅が激しく、細かい抑揚あるソウル・ディープな歌い方が特徴とされている。ヒギャが南部に拘らず東と表記されるのは、この地区がかつて東方村と呼ばれた頃の名残りだ。というわけで、朝崎さんの唄は瀬戸内出身だから後者のヒギャ系ということになる。
両親が共に唄者だったこともあり、幼い頃からシマ唄に囲まれて育った。特に喜界島生まれの父は優れた唄者、三味線奏者であるばかりでなく、島唄の研究者でもあったと言う。その後、17歳の時に福島幸義(同期の兄弟弟子に武下和平がいる)に師事してシマ唄を学んでいる。
この時代に師匠に付いて加計呂麻各地の集落を歌い回ったことが、彼女のシマ唄形成に大きな役割を果たしたのだと思う。師匠は各集落に伝わっているシマ唄を採集し、尚且つその唄の成り立ち、伝承を訊いて記録していったというから、バルトークやコダーイが生まれ育ったハンガリーの地の民謡を採集して今に残した作業に通じるところがある。ともあれ、彼女にはそうした過程で身に付けたシマ唄も相当にあったようだ。
父、師匠だけでも或る意味ではサラブレッド的なシマ唄環境におかれていたことになるが、朝崎さんにはもう一つ忘れてはならない強力なファクターがある。それは喜界島のマツおばあちゃんだ。後に曲目紹介の時にも触れようと思うが、本作にはそのおばあちゃん譲りの喜界島のシマ唄も収録されている。朝崎さん曰く、そのおばあちゃんの唄は父とも師匠とも違うという。感情表現が巧みで細かい抑揚、起伏に富んだ歌いまわし、コブシ(グイン)は独特のものがあったと語るが、聞けば聞くほどそれがそのまんま朝崎さんの唄にも通じるというか、伝承されているように思える。
そんなマツおばあちゃんの唄を子守歌替わりに聴いて育った朝崎さんだからこそ歌えるのが古いシマ唄。今や朝崎さんしか知らない、歌えないという独自のレパートリーを持ち得たのもそのためだ。何せマツおばあちゃんの唄と言えば、たぶん明治時代、ヘタしたら江戸時代末期の唄ということになるのかも知れない。想像するにその頃のシマ唄は今現在よりも遥かに節まわしは複雑で難しかったに違いない。従って朝崎さんの唄にもまたその遠い記憶が刷り込まれていることになる。ちなみに、その後朝崎さんは結婚して、1960年にご主人の転勤で島を離れ、福岡、東京と移り住んでいるので、結果的に近代化の波にさらされることなく、彼女の中でタイム・カプセルのように原型のまま保存されているというわけだ。
彼女の唄が他の何処にも無いことから“唯一無二の朝崎節”と言われるのは、そんな様々な要素が有機的に絡み合い、複合された末に形成されたからだろう。実際に奄美に行って見て現地の人に朝崎さんの話を聞いて見ると面白い。シマ唄を現役で歌っている唄者の人でさえ、朝崎さんの唄は独特だと言う。中にはあの人の歌い方はシマ唄には無いから、シマ唄ではないんじゃないか?と語る人までいるくらいだ。が、そうした人たちの大半は現在進行形のシマ唄しか知らない。古老と言われている人でさえ、ぜいぜい数十年前という世界だ。朝崎さんのようにおばあちゃんのシマ唄で育ったというのは他に例を見ない。朝崎さん独自のシマ唄、それは今や奄美に行っても残っていない、誰も覚えていない、最も古い奄美の記憶を閉じ込めたシマ唄でもある。
「シマ唄は親から子、子から孫へと歌い継がれてきたんですけど、島にかつてどういうことがあったか、歌の背景でその頃の島人(シマンチュ)の生活が分かるんですね。私の生まれた加計呂麻島にも薩摩や琉球王朝の頃の圧政を歌った唄が残ってますが、奄美の人はソレを戦わずに受け容れてきたんで、逆に古いモノがそのままの形で残ったんだと思うんです。一番古いのは平家の時代の唄で、上の句、下の句になっているんですね。それで、私のことを“わん”、汝を“なん”て歌い方しますから、もう和歌の世界だと思います。平家の落人である歌人、平資盛(すけもり)が来て村人に音楽や学問を教えた記録が残ってますから、それが芯になって、そこから唄を作っていったんじゃないかと…。それから加計呂麻には平資盛が伝えたという歌舞伎の原点みたいな“諸鈍芝居”というのがあって、それも平氏のことを歌ってます。薩摩が奄美の文献だとか、文書を焼却しなければ、奄美の正確な歴史の記録が残っていれば、日本の歴史もガラリと変わるって聞いてますから、よけい残しておかなくちゃいけない。それが私たちの務めだと思います。この唄はどうやって出来たのか、若い人たちに伝えなきゃ、これがご先祖さまの宝物だよって!」(朝崎郁恵)
さて、これまでシマ唄の“シマ”を漢字の“島”ではなく、何故わざとカタカナ表記で表現して来たのか?という疑問をお持ちの方も多いのではないかと思われる。The Boom が「島唄」なるヒット曲を放ってしまったお蔭で紛らわしくなってしまったが、沖縄も奄美も迷惑しているという話を良く耳にする。実は沖縄には元々島唄なるものは存在しないし、正確にはシマ唄と呼ばれるものは奄美にしか存在しないものだ。ただし、ここで言う“シマ”の意味が異なる。奄美のシマ唄の“シマ”は“島”ではなく、集落のことを指す。昔の股旅物の映画などで、「この辺はオレのシマだ」なんて台詞が登場することがあるが、アレと同義語。縄張り→集落ということになる。奄美ではシマ=集落ごとに歌詞も節回しも異なるシマ唄が存在しているので、シマ唄という呼称が生まれたのだそうな。
●奄美の神空間
奄美のシマ唄と密接な繋がりがあるのが、奄美の集落の形態だ。奄美本島には殆ど見られなくなってしまったが、朝崎さんの故郷である加計呂麻島には原初の古い集落の形態がまだそこここに残っている。朝崎さんが生まれ育った花富集落もその一つ。集落の中央には“ミャー”(宮)と呼ばれる広場があり、そこにはノロ(祝女)が自然に感謝し畏怖し、集落の豊穣、幸福、安全を祈願する祭祀を行なう“アシャゲ(足騰宮)”、“トネヤ(刀禰屋)”があり、そしてその脇には必ず相撲場(土俵)がある。この集落内には普段は人が通らない“カミミチ(神道)”が通っていて、その道は集落の背後にある“カミヤマ(神山)”へと通じている。これはどの集落にも共通する神空間であり、これがどのシマにもある基本形であり、シマはこの神空間によって成り立っていた。朝崎さんはこの奄美独特の深遠な神空間でそだち、祭祀を執り行ったノロたちの歌う神唄を聴いて育っっている。朝崎さんが述懐するには、子供の頃に“トネヤ”から漏れ聴こえたノロの神唄は裏声を使ったもの悲しいもので、複雑な抑揚を持っていたと言う。
思うに朝崎さんから聞いた神唄の特徴や様子は、そのまま朝崎さんのシマ唄を連想させる。ひょっとしたら奄美のシマ唄の原点は神唄で、それが大衆化して思い思いの歌詞を付けて歌い出したんじゃないだろうか。そうなると、奄美だけにある裏声を多用した独自の歌い方も説明も付くし、むしろ当然の帰結にもなる。朝崎さんもまた同様に思っているとか...。真偽は勿論判らないが、それにしても奄美のシマ唄は奥があまりにも深い、深過ぎると痛感させられる。
ちなみに、今回初めての試みとして、CDジャケットのブックレットの真ん中に奄美のそうした様々な行事や神事などの写真を並べて見た。ここで触れた花富の“アシャゲ(足騰宮)”、“トネヤ(刀禰屋)”などの写真も含めて文章だけでは想像し難い部分を補ってくれるのではと思っている。
他に簡単に触れておくと、アダンは奄美の海岸に生息している天然の防風林の役割を果たしている植物。最近は無粋なコンクリートの護岸やテトラ・ポットが増えて美しい自然な海岸線とアダンが失われていると、朝崎さんは嘆く。
ハブ採り棒は今もハブが数多く生息する奄美の生活には欠かせないもの。護身用という理由もあるが、実は殆どは小遣い稼ぎの道具として使われている。このハブ採り棒は、タクシーの運転手、バスの運転手から、普通の乗用車の殆どに搭載されていて、途中でハブを見つけるとお客さんを待たせても捕獲するとか。何故なら役所から報奨金が出るそうで、数年前までは一匹捕獲する毎に4000円が支払われていたものの、最近は3000円に値下がりされたのだとか...。それでも、その日の呑み代としては充分かも。何やら羨ましいような話でもある。
●南ぬ風
1.あみしゃれ
朝崎さんが子供の頃から聞いていたというお母さんが歌っていた花富の唄。が、今や花富でも誰も歌っていないというレアなシマ唄でもある。あみしゃれは奥さん、女性のことを指す言葉。神様、ご先祖さまの供養、こういう内容のシマ唄が残っているのも信仰心の厚い奄美ならではだと思う。まだ三味線が入って来る以前の古いシマ唄とあって、アカペラの唄に対して伴奏するのは奄美の特徴ある伝統打楽器、太鼓であるティディンのみ。ここで使われているティディンは朝崎さんが現地でノロさんにお祓いしてもらって購入したという神々しい一品。馬の毛が生えたままの皮も珍しい。これもブックレットの中ほどの奄美写真コーナーに掲載してある。尚、ティディンを叩きながら家に入ったりするのは、場を清めるという意味合いがある。“太鼓の音って凄いんですよ。田舎は何の音も無いし、一里先からでも人を呼ぶんですよ。人を呼ぶ力があるんです、ティディンには。この唄はもう花富でも誰も歌ってないけど、自然を神と讃えて、崇めている祭の唄。これはねぇ、元は神唄だと思うんですよ。”(朝崎郁恵)
2.ほこらしゃ
古い八月唄(旧暦8月に奄美全域で行われるお祭り、八月踊りで歌われる唄のこと)。「今日ぬほこらしゃ」というタイトルでも知られる。北部の笠利の方ではあまり歌われず、主に南の方で歌われているが、加計呂麻ではシンプルに「ほこらしゃ」で通っている。縁起が良い祝い唄、めでたい唄なので、共通歌詞として歌われることが多く、実に色々なシマ唄に登場する。“今日のうれしさ、今日のめでたさよ、何ていう日なんだろうかっていう、嬉しいのでこのようにありますようにっていう祈りですよね”(朝崎郁恵)
3.あはがり
あはがりとは暗がりの反対語の明がり、光という意味の奄美言葉。訛ったというよりは万葉言葉なのだろうと思う。自然に対して常に謙虚に接し、畏怖を抱きながら生きて来た奄美人の姿勢、奄美の自然信仰がそのまま綴られたような歌詞が印象的だ。“これは元は徳之島節という曲なんですが、NHKの「新日本風土記」の番組で主題歌を歌うことになったので、アタシが詩を付けました”(朝崎郁恵)
4.ええうみ
古い八月唄の一つ。八月踊りで一晩中踊り明かす時に歌われた唄なんだろう。“神様とご先祖様のお祭りがあるので、踊りに行きたいけど、そこに着て行く着物がない。一つある羽根は子供たちに着せて、自分は山に行ってかずらを取って来て、身に纏って行く。多分これは奄美の人たちが裸で暮らしていた頃じゃないですかね。あと、何で着物じゃなくて羽を使っているのかなって。何か羽衣に近いものを感じるんですよね。着物じゃなくて羽が無いって、飛ぶ羽が無いって。飛んで行くってことですよね。何を意味してそういう表現をしているんだか。こういうものをアタシたちは唄を通して学ぶ、こうじゃないかなと考えるんです。唄は言葉が足りないから”(朝崎郁恵)
5.千鳥浜(ちぢゅりゃはま)
6.浜千鳥(はまちぢゅりゃ)
これも八月唄。親、子供と別れて一人立ちを促した、人生の教訓歌。島唄の中にはこういう教訓を歌った唄が数多くあって、島唄が教科書替わりだったというのも判る気がする。朝崎さんは母が子守歌替わりに良く歌ってくれたと述懐する。浜千鳥の方が古いというが、聴けば納得してしまう。“これは曲が違うけど、歌詞が一緒。同じ歌詞で歌っているんですね。親離れ、子離れってそういう時期があるじゃないですか、人生には。それを千鳥に例えて歌ったもの、古い唄です”(朝崎郁恵)
7.嘉鉄伊能國主
これまた八月唄。奄美のシマ唄には「嘉徳なべ加那(かどくなべかな)節」、「塩道長浜」など、地名、又は人の名前が入った唄が結構多い。この曲もその一つ。そこで起こった出来事とか、事件を題材にしているだけに、物語性があって面白い。“これは地名ですね。古仁屋の方の集落です。そこに伊能國主っていう金持ちがいて、お寺に馬に乗りに行ってたんですって。そしたら馬じゃなくて松がねという女性に乗ってたっていう話です。松がねっていう女性はそんなにきれいじゃないけど、まぁ下ネタの唄ですね。面白いのが残っているでしょう?噂、話題になって唄になって残ったんです”(朝崎郁恵)
8.飯米とり節
これは通りすがりの娘を言葉巧みに誘って、いたしてしまうという、思わず笑ってしまう青空ナンパの話だ。「嘉鉄伊能國主」同様におおらかでのほほんとした男女の営みを描いた下ネタ風と言って良いんだろうか。基本は農作業唄なんだろうが、どこへ行くんですか?色の白い娘さんよ。食べるものは僕が調達してあげるから、二人で昼山を焼こうっていうくだりが面白い。山小屋で、大きな葉っぱを敷いて愛し合いましょうっていう内容なのだが、何ともブルースだなと思わせる。 考えて見ると、“裏木戸を開けて待ってますから、忍んで入って来て下さい”と夜這いを誘う「側屋戸(すばやど)節」、“曲がりくねった、峠の頂きで提灯を灯して待ってるので、その明かりを目印に忍んで来て下さい”と歌う「曲がりょ高頂節」などは女性からの誘いであり、不倫もありだ。が、いずれもロバート・ジョンソンの「Come
On in My Kitchen」のようなもので、ブルースと酷似した歌詞が印象的だし、確信を持って、これぞ奄美のブルース!ではないのかと思う。これは余談だが、“山で燃えようよ”なんてその歌詞だけ見たら、洋楽的には同名異曲だが、連想するのはチャーリー・ダニエルス・バンドの「Fire On The Mountain」か、グレイトフル・デッドの「Fire On The
Mountain」かい?なんて思ってしまう人もいるんじゃないだろうか。ネヴィル・ブラザーズの「Fire on the Bayou」まで行くといささかマニアックか?(笑)
9.渡者
喜界島と奄美本島を結ぶ渡し船の船頭(渡者)の生活を歌った唄。喜界島と本島とはフェリーで5時間ほども掛かるほど離れているが、昔は手漕ぎのサバニのような舟で往き来してたらしいから、相当な重労働だったことが判る。“渡者は乞食の踊りって言って、船頭が乞食の恰好をしてるって。仕事が無くて、渡りはそんなにイイ仕事じゃなくて、という話を聞きましたね。だからお金があって身分が良けりゃ、すぐ辞めるのにっていう詩もあるし、昔を思い出して涙が出て来るっていう歌詞もあるんです。辛かったんだと思いますね”(朝崎郁恵)
10.稲すり
明解な農業の作業唄、つまりは奄美版のワーク・ソングである。“稲が実ってそれを米にするわけ。するまでの過程を唄にした作業唄です。昔は籾からお米にするのに、脱穀するんですけど、それを二人でするんですよ。お米があるってことは新しい唄ですね。たぶん、明治時代じゃないですか。私が歌っているのはマツばあちゃんが歌っていた喜界島の唄ですけど、詩が良かったんですね。奄美のとはちょっと違って、喜界島は粟が多いんです。豊作なんで早く摺らないと食べられないよ。早く食べようって唄ですね。”(朝崎郁恵)
11.しょうれん
奄美の正月を歌った古い唄の一つ。ここに出て来る正月が来るけど、晴れ着が無いので貸して下さいというくだりは、「ええうみ」の踊りに行きたいけど、着て行くものが無いので貸して下さいという歌詞と通じるものがある。生活に窮していた奄美の情景が伝わって来る表現だが、これもまた或る意味では極めてブルースっぽい一面でもある。思い出されるのは1930年代のブルース・クラシックでもある「Brother
Can You Spare A Dime」。兄弟!10セントくれないか?という唄だ。かつては鉄道で働き線路も敷き、高いタワーの建設にも携わったが、今は無職で金が無いという、季節労働者、或いは移民系労働者の悲哀とやるせなさを歌ったもの。奄美シマ唄のちょっとした一節にブルースが感じられるというのも面白い。
“振袖って出て来るのは着物一式のことです。晴れ着ってことです。ウラジロという葉っぱ(シダ系)とユディル(ゆずり葉)を飾り、ウラジロの上にお餅を置いて、その横にみかんを置いて。年寄りを床の間に座らせて、私たちは一歩下がって伏して拝む。白髪年片は老人ってこと。それくらいお年寄りを大事にしているってことですね、昔の人は”(朝崎郁恵)
12.東れ立雲
奄美のシマ唄には自然そのものや、野や山、海などを題材にしたものも多いが、これもそんな唄の一つ。特に人を想う気持ちを雲に例える辺りが凄いと思わせる。“東の空に千切れて行く雲を見ると、昔別れていった恋人を思いだす。あの雲の下に恋人が住んでいると思うと、そこに行って抱きたいっていう唄ですね”(朝崎郁恵)
13.豊年節
奄美の生活に根ざしたシマ唄。蘇鉄(ソテツ)の実で作ったお粥という一節に、かつては食料に窮していたというところに、当時の生活の一端が垣間見える。“西ぬ口っていうのは今思うと、やっぱり北の沖ってことでしょうね。鹿児島の山川から1年に1回食料を積んで来てたわけです。線香が無くて松の葉を線香替わりにして使っていたくらいだから、1年に2回は来て欲しいっていう唄ですね。これは新しい唄だと思いますよ。鹿児島から食料が届いていた時代だから、新しいですよね。蘇鉄を食べていたのは私たちの世代ですから。まぁ、明治の頃じゃないですか。”(朝崎郁恵)
「島に帰ると海が見たくて、海に行って歌うんですけどね。波風が立つんですよ。何度もソレを経験してますけど、最初にまず風が来て、それから波が荒々しくなってくるんですね。そんな時、アア、また応えてくれてるなって思うんです」(朝崎郁恵)
奄美のシマ唄は大体が低音域から入って次第に高音域に、曲によっては低音域から急に高音域までワープするかのようにひとっ飛びすることも...。朝崎さんの唄はその低音域がハンパなく凄いというか、ただならぬ魔的な妖しさを纏っている。特に本作で言うならが「あはがり」が凄い!歌そのものから気がゆらめき立っているような圧倒的な“チカラ”が漲っている。誤解を恐れずに言うならば、或る意味シャーマニズムの巫女的な独特の存在感があって、どこかおどろおどろしい怖ささえも感じさせるものがある。奄美のハブにも似て地を這うような声がうねり、響き渡る。考えて見れば、ハブは神の使いだから然もありなん。
元々が奄美のノロ(祝女)の血筋を引く彼女の歌はやはり紛れもなく“神を降ろす声”なのである。
2016年06月
Stay High Always!
(Hideki Masubuchi/増渕英紀)